http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49908

糖質制限に「アカデミック」の世界からの批判が登場したようである。しかし中をよく読んでみると糖質制限をめぐる「社会意識」を表面的に掬い取って既存の「常識」をこすりつけるものにすぎなかった。あまりに残念なので批評を書いてみる。

論者は磯野真穂氏

磯野真穂

文化人類学者 国際医療福祉大学大学院講師

アカデミックの人らしく著書の引用は丁寧であり、ウェブ上の読み物としては参照文献の明示も「学術論文」風である。

主張を見ていこう。

氏は、糖質制限を推奨するジムに通う人のツイッターを見たり、「白米は太る!」と断言するキャリアウーマンに出会い、糖質制限が大ブームとなっていることに気づいたとして論を進める。

そして、自らが専門とする文化人類学の視点からして「糖質制限はかなり特異な現象である」とする。

私の専門である文化人類学は、人間の多様な生き方を、長期にわたるフィールドワークの中で明らかにしていく学問である。

その視点から眺めると、糖質制限はかなり特異な現象であるといえる。食は人間の多様性が如実にあらわれる場所であるが、一方で主食にあたる食べ物にとりわけ大きな価値が置かれることはほぼ共通しているからだ。
なぜ「特異」というのかと言えば、氏は「主食にあたる食べ物にとりわけ大きな価値が置かれることは人間に共通しているからだ」という。

ようするに「やっぱ主食たべるでしょ」というツッコミである。

その例としてアフリカはローデシア北西のベンバ族の食べ物である「ウブワリ」を、氏と同じく文化人類学者のオードリー・リチャーズの記録からとりあげる。

「ウブワリ」とは熱湯で雑穀をといたペースト状の食べ物であり、これがベンバ族の主食であり、おかずも含めた食事全体も「ウブワリ」ということばで指すこともある。

日本で「米を食べないと食った気がしない」とよく言うように、糖質主体の主食とおかずという組み合わせは世界に広く見られる食事のあり方だ、と。

すなわち「糖質制限が特異である」と指摘する根拠として、アフリカのベンバ族の食事と日本の米を主食とした「ご飯」」「飯(めし)」の共通性を引き、ようするに「主食はたべるでしょ!フツー。」と言ってるわけである。

そして氏は、文化人類学者らしくイヌイットなど寒冷地に住み「穀物をとらない民族も存在する」ことを知っていると断りながら「相当数の人々が糖質によって命をつながれ、そしていまもつながれていることは間違いがない。」とする。

そんな人類にとっての「命の糖質」(磯野氏)に対し、ラーメンの写真とともに「こんなの食べるなんて狂気の沙汰!」と投稿する者や、「白米は太る!」と断言するキャリアウーマンへの違和感を表明して論をすすめていくのだ。

あいも変わらぬカロリー理論

次に氏は糖質制限のリーダーの著作をとりあげつつ、糖質制限派の主張の矛盾点として2点を指摘していくのであるが、しかしその指摘は月並みなものであり根拠薄弱と言わざるを得ないものである。

氏が矛盾として指摘する一つは、摂取カロリー中の炭水化物(すなわち糖質)の割合である。

この点について氏は、まず、夏目睦著「炭水化物が人類を滅ぼす」において「現代人が悩む多くのものは、大量の穀物と砂糖の摂取が原因だったのだ。人類が神だと思って招き入れたのは、じつは悪魔だったのである。」と述べている点にかみつく。

厚生労働省が出した文献「国民栄養の現状」(1947年)「栄養読本」(1936年)で日本人のカロリー摂取量のうち炭水化物での摂取が80%を超えていること、それに江戸時代の記録にも日本人は米を食べていたとあると指摘しながら、このように主張する。

ここから明らかなように、白米に代表される糖質は、日本人が追い求め、そして実際に日本人を生かしてきた食べ物である。しかし21世紀に入り、その糖質を悪魔と呼ぶ人が現れた。当時の人がこれを聞いたら目をぱちくりさせるに違いない。
しかし糖質制限派からすれば、昭和初期の糖質摂取量だって人類史的に見てスタンダードとは言えるのかと疑問をなげかけるところだし、ヒト生理学的・栄養学的に見てもっとも合理的な食事であるとの主張にも証明にもなっていない。

厚生労働省の文献におけるカロリー摂取比率だって「当時食べていた事実」が記述されているだけであり、それがなぜ生理学的栄養学的に合理的なのかの根拠はいくら探しても見つからない。

また「日本人ならコメでしょ!」とは、糖質制限を知りながらも戸惑い実践を躊躇する方(なぜか男性に多いようである)がよく口にするトークであることは、糖質制限派ならたびたび経験するところである。

「原始時代」への言及は「素人的私たち」から素っ気なく

氏はさらに、糖質制限派の矛盾の二つ目として、糖質制限派が「その絶対的な根拠を原始時代に求めて」いることを以下のように要約しつつ取りあげる。

人類は700万年近くを狩猟・採集で過ごしており、その間、人類は高タンパク・高脂質の食事をとっていた。糖質が食事の中心になったのはわずか1万年前のことであり、人間の身体は糖質を大量に摂取するようにはデザインされていない。2型糖尿病、肥満、心疾患といった生活習慣病の大元は糖質過多の食事にある。
まことに正確な要約であるが、これについて進化生物学者のマーリーン・ズックが糖質制限派を「パレオ派」と呼び「パレオ・ファンタシー(原始へのあこがれ)」と名付けて批判していることを、氏は紹介していく。

マーリーン・ズックの論から「初期人類も穀物を食べていた形跡がある」「人類は時代や場所に応じて様々な食べ方をしている」「身体の適応に1万年は十分な時間である」の3点でとりあげ、以下のように磯野氏はまとめる。

人類はある時期環境に完璧に適応した健康な生活を送っていたが、時代が下るほどにそこから離れていったというパレオ派の考えは、進化についての誤解であるというのがズックの主張である。
マーリーン・ズック氏の「パレオ派(=原始時代を根拠にあげる糖質制限派)」批判には、糖質制限派からも反論を行う余地も中身もあると思われるが、磯野氏の糖質制限派が原始時代に根拠をもとめることへのコメントはなんとも素っ気ないものだ。
また進化生物学者の言葉を待たずとも、原始時代に回帰する糖質制限派の主張に無理があることは、素人の私たちにも予想がつきそうだ。
この現代において「原始時代」を持ち出すことそのものが「素人」的にいって無理があるのはわかりますよね、として「素人の私たち」的感覚によびかけるのである。

もっとも、ここで氏が自らを「素人」と呼ぶのはマーリーン・ズック氏を引いたことから「進化生物学には素人の」ということなのであろうが、糖質制限派の主張を「ファンタシー(あこがれ)」であると断ずるマーリーン・ズック氏の立場からは、それ以上に栄養生理学的な合理性の検証に立ち入らないのは必然であろう。

しかし、「原始時代への回帰は無理があるよね」という「素人の私たち」的な同意を読者に求めるのは、市民ブロガーとしてならともかく「文化人類学者」を名乗った論考としてはいかがなものであろうか?

その結果、磯野氏自身も認めるほど「大ブーム」となった背景についての人類史的な考察も深く掘り下げられず、その結果、まことによくみかける糖質制限への疑問で「原始時代への回帰」の議論を片付けてしまう。

もし糖質を中心に食べることが、人類という種にまったくそぐわないものであれば、栄養摂取の8割強が炭水化物からであった昭和初期の人々は次々と生活習慣病を発症していただろう。
「あんた(糖質制限者)みたいなこと言ったら昭和の人間は絶滅しているじゃん」などは糖質制限に疑問をなげかける人の居酒屋トークでよく聞かれるものであるが、ここは「素人の私たち」的ではなく人類史的なテーマでも考えてみたいところである。

糖質制限派が「原始時代」に言及するわけは?

この点では糖質制限派のオピニオンリーダーである江部康二氏が述べている人類史の画期が重要であることを指摘しておきたい。

江部康二氏は著書でこのような議論をすすめている。

人類の食生活は「農耕が始まる前」「農耕以降」「精製炭水化物以後」の3つに分けることができます。この3つの変化がきわめて重要な意義をもっているので、それ以外のことはすべて枝葉末節と言って切ってもよいくらいです。
[amazonjs asin=”4478017425” locale=”JP” title=”主食をやめると健康になる ー 糖質制限食で体質が変わる!”]

江部康二氏は、人間の健康にとって恒常性が重要であるところ、糖質の摂取は血糖値を上昇下降させることで恒常性がみだされ健康に影響をおよぼすのだ、とわたしたちに解説してくれる。

そして「農耕以後」はそれ以前人類700万年間の2倍の血糖値の上昇下降となり、さらに「精製炭水化物以後」の最近約200年間は3倍にもなったとする。

江部康二氏は、著書で、ここ約200年間程度の爆発的な糖質摂取量の増大は、農耕を発見した1万年前の変化に匹敵するほどの画期である、としているのである。

この人類史的な視野からすると、昭和初期に炭水化物の全カロリー中割合が8割だったなどはまさに「枝葉末節」であり、糖質制限派がもっとも重視していくのは「血糖値の変化」とそれが人の行動や生理・代謝に影響を及ぼしている事実なのである。

この「血糖値の変化」について、磯野氏は江部康二氏や夏目睦氏の著書を読んでも気づかないのか知っていて議論の俎上にあげないのか不明であるが、文化人類学的にいってもここに想像をめぐらすのは意義のあることではないのだろうか?

「文化人類学」とは何をしてる学問なのか?

磯野氏は、エントリーの冒頭で、自身の専門分野である文化人類学を紹介してこのようにいっていた。

私の専門である文化人類学は、人間の多様な生き方を、長期にわたるフィールドワークの中で明らかにしていく学問である。
「長期にわたるフィールドワーク」。

いやいや。とはいっても人類のたどった700万年間を遡り「フィールドワーク」することはできないだろう。「素人の私たち」でも、わかる。

仮に文化人類学として「長期にわたってフィールドワーク」することができるとしても、農耕以後1万年のうち、ほんの最近の数十年間程度ではなかろうか。

人類700万年のほとんどの期間であった「原始時代への回帰」を根拠とする糖質制限派の主張に対し、文化人類学の行うという「長期にわたるフィールドワーク」が間尺に会うのかどうかまことに疑問である。

では、磯野氏のいう「文化人類学」とは?

実は、この投稿をさらに読みすすむと磯野氏が文化人類学者としてどんな社会現象にアプローチしているかが明らかになる。

女性の「やせ願望」という社会意識

すなわち、磯野氏は糖質制限のブーム現象は「やせたい願望を抱く女性」の問題なのではないか、と言いたいようなのだ。

そこでは、氏が「奇しくも」と言って江部康二氏の著書からの次のように引用していることから辿れる。

明治や戦前の日本人は、総摂取カロリーの7〜8割が米飯(主に白米)だったにもかかわらず、2型糖尿病がほとんどありませんでした。当時の日本人の日常生活における運動量は、現代人の10倍近かったと思います。 結論としては、運動量が現代人くらいだと、白米を一定量以上食べると、とくに女性の場合は2型糖尿病のリスクになるということです。
江部康二氏が著書で書いた「現代は運動量が少ない」という点と「とくに女性の場合は2型糖尿病のリスク」という指摘を捉え、氏はその点に議論を集約させていくのだ。
つまりここから言えることは次のことではないだろうか。

現代人、特に運動量のあまりない女性が白米をたくさん食べると2型糖尿病のリスクがあがる。白米を減らす、あるいは運動量を増やすとこのリスクを下げることができそうだ。
そしてなぜ糖質制限はブームになったのか?と自ら立てた問いに対して、まとめていく。
たくさんの食べ物があふれ、貧しい人でも簡単に太ることができ、やせることが無条件に美しさ、カッコよさ、聡明さ、自己管理能力の高さと結びつく、人類史稀に見る社会状況にフィットすることにより糖質制限はブームになった。
すなわち女性の「やせたい願望」こそが糖質制限ブームの背景にあるのだと。

たしかに磯野氏の著した著書は「なぜふつうに食べられないのか〜拒食と過食の文化人類額」というタイトルとなっており「女性のやせ願望」についての業績となっているようである。

日本社会は、肥満が問題になる一方で、やせすぎの若年女性の多さとそれゆえの健康被害が懸念される国でもある。
と磯野氏はいい、日本社会は「やせていることが評価される社会」であり、そこでは食糧がありあまる状況の下で「食べたいけどやせたい」という欲望がかき立てられているのだと。

[amazonjs asin=”4393333365” locale=”JP” title=”なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学”]

その問題意識から、糖質制限がブームとして普遍化している裏側には(女性のやせ願望という)きわめて特殊な価値観と構造があることに目を向けるべきだ、投稿をまとめていくのである。

ここまで読み込んで、磯野氏がこの投稿の冒頭を、糖質制限を推奨するジムに通う人の「ラーメンなんてありえない」というツイッターを見たり、「白米は太る!」と断言するキャリアウーマンに出会ったことから始めたわけに合点がいく。

磯野氏の問題意識としてはよくわかった。女性の「やせ願望」現象は深刻であることも理解できる。

糖質制限派のいう「生理学的な根拠」に言及して批判を展開するべきだ

ただ、それでも磯野氏の以下の指摘だけはいただけない。

しかしその事実は、生理学的な説明と、原始への憧れにより巧みに覆い隠されている。
あたかも糖質制限派が、日本の深刻な「やせ願望」社会を覆い隠しているかのような言い分である。

実際にわたしが知っている事態は逆である。

糖質制限に取り組む女性に対して「先輩」者がアドバイスするのは「タンパク質と動物性脂肪をしっかり摂って」「栄養不足を補うために一時的に体重が増えるのを恐れないで」「健康的な体重になることが目的」などとなる。

人間の生理学的栄養学的な根拠にもとづくとこうなるからである。

「やせ願望」をもつ女性に対して、それは思い込みにすぎないよと生理学的な説明に基づいて説得することになるのが、実際の糖質制限のアドバイスなのである。

糖質制限派が「原始時代に根拠」を求めるのも、生理学的・栄養学的にみた代謝の機序を知り、それが原始時代に形成された人類進化の過程、未来への可能性を発見するからであり、単なる「憧れ」や「懐古」に浸っている暇などない。

磯野氏は、この投稿で「生理学的な説明」について立ち入った言及も検証もしていないばかりか、人間生理にもとづいている「原始時代への回帰」思想を切り捨てている。

しかも、糖質制限実践の実際も検証しないで、レトリックレベルで糖質制限派が隠蔽を行っているかのように決めつけている。

この点については「大きなブーム」となって広がりつつある糖質制限派から、厳しい反論と批判にさらされることになるだろう。

どうしても気になる「人類の健康食」の意味

最後に、磯野氏が続ける糖質制限への疑問に答えておこう。

糖質制限はほんとうに「人類の健康食」なのだろうか? それは限られた時代の、限られた地域の、限られた人々にとっての健康食ということはないだろうか?
糖質制限が「人類の健康食」と自らを定義するのは、人間の身体生理にそなわった仕組みに従って食べることを指している。この仕組みを自覚して食べることを覚えれば、その形態は時代と人々によってまさに多様である。

けっして「女性のやせ願望」が蔓延している現代日本に限った健康食ではない。

さらに言えば、糖質制限派からみれば「女性のやせ願望」も糖質の頻回過剰摂取による心身症状と見ることができる。

自己肯定感がもてない、焦りや不安、強迫観念といったものが糖質の過剰頻回摂取による栄養不足から引き起こされているとの指摘は、多くの糖質制限実践者や医師らが口を揃えるところなのだ。

「過食や拒食」においても、糖質摂取後の血糖値変動とそれに伴うホルモンバランスの変調、ビタミンやミネラル等の栄養浪費といった生理学的栄養学的な検証が、可能となっているし「文化人類学的」にも意義があると思われるのである。

「現代文明と健康」について考えるなら「飼い慣らされた生き方はお終いにしよう」と呼びかけるこの著書が秀逸だと思う。もちろん炭水化物は制限すべきとその理由とともに語っている。

[amazonjs asin=”4140816619” locale=”JP” title=”GO WILD 野生の体を取り戻せ! ―科学が教えるトレイルラン、低炭水化物食、マインドフルネス”]